「西信達地区地域教育協議会だより」より
●エピソード1 『南海本線 岡田浦駅』
南海電鉄は、日本初の私鉄として明治18年営業を始めた阪堺鉄道(難波~堺間)を明治30年営業を始めた南海鉄道(堺~泉佐野)が事業を譲り受け、明治 36年3月21日に難波~和歌山市間の本線が開通し、国策で戦時下に近鉄と合併し、戦後、分離して南海電鉄となりました。
西信達に鉄道が走るようになったのは、泉佐野から尾崎間が開業した明治30年11月9日ですが、この時にはまだ岡田浦駅はなく、樽井駅しかありませんで した。単線で蒸気機関車による日に9本の運行でした。(樽井~難波の料金は32銭※明治34年と平成20年の企業物価指数で計算すると現在の480円ほ ど)明治44年に全線が電化され、大正4年に「電車専用簡易停車場岡田停車場」として申請されたのですが、翌月「岡田浦停車場」と変更申請されました。そ して、大正4年11月1日に岡田浦駅が開業しました。今年(平成21年)で開業94年を迎えます。
●エピソード 2 『漁業』
岡田村は元和4(1618)年まで庄屋が1人だったが、「浦」と「陸(くが)」にそれぞれ庄屋が置かれるほど漁業は盛んになっていき ました。岡田浦は、沿岸漁業と他国出漁の2形態で展開しました。
沿岸漁業では大消費地を抱えていたため大阪湾の漁民は全国でも最も進んだ漁業技術をもってい ました。領地の境界が大きく漁業権に影響したため岡田浦は吉見浦・嘉祥寺浦と紛争 が絶えなかったようです。大阪湾から友が嶋の沖合漁場は紀州加太浦と和泉国の浦方の共同漁場でした。岡田浦の名産はカレイで鰯も良く漁獲していたようです。他国出漁は戦国末期から近世中期にかけて盛んに行われました。当時漁業の未発達だった地域で は城下町と綿栽培の発達で魚の需要が追い つかなかったことがあり、先進地域(全国各地に展開する近世漁業はほとんど大阪湾と若狭湾から伝播・普及した)の漁民を誘致して漁業の発展をはかりました。樽井浦は薩摩に出漁したが、岡田浦は主に関東の九十九里浜の南部から東上総・外房に出漁しました。食料の資金を含めてすべて準備して出漁する必要があったので大きな資本が必要で、大坂・堺の干 鰯問屋や同族出資や自己資本で準備していたようです。9月から5月まで出稼ぎをして鰯漁をして引き揚げるのが 原則ですが、出稼ぎ先に家を建てたり、息子や兄弟を残して置いたりして、元禄期には土着化する傾向で、地元漁業の勃興と相まって享保8(1723)年ごろには関東出漁は終焉したと思われます。戦国末期のころから、現代なら遠くの外国 まで出ていく広い視野をもって、思い切って広い世界に飛び出していった多くの先人の感覚は、すごいですね。
●エピソード3 『岡田浦の「廻船商」』
岡田浦は漁業でも栄えていましたが、隣の樽井浦に勝る「商船(あきないぶね)」の浦方(漁村の住民)で「廻船商(かいせんあきない)」で賑わっていまし た。寛文7(1687)年当時、33艘の船に増え、さらに元禄元(1698)年には64艘に増え、しかも大型化して発展しました。
江戸・大坂間の貨物輸送の江戸積廻船、岡田浦その他から大坂・堺間の運送の大坂積廻船、紀州熊野その他九州・北国越前まで運送する田舎廻船の3形態があ りました。船の行先は固定化されておらず、都合により3形態でした。また、単なる運送だけではなく、商人として自ら買い付けして運送して売却して利益を上 げていました。
廻船商の積荷は、年貢米・地廻り米・材木・薪炭・魚類・干鰯・塩などで、廻船の船頭・水主(すいしゅ:船乗り)に多くの岡田浦の村民が従事しました。寛文7年では全村の男子790人の就労可能な男子の大半の297人が船頭・水主で稼いでいました。
廻船商で活躍した2代目赤路六郎兵衛重政(宝暦10(1760)年没)は「売買軍談記」を著し、冒険商人よろしく活躍した一生を振り返って子孫に商売の秘訣を、具体的に経験に基づく知識を基に書き残しました。3代目からは質屋も営んでいたことが史料からわかっています。
この時代、当時可能な限りの広い世界に羽ばたく人が多くて、岡田浦は非常に羽振りが良かったことがうかがえます。
●エピソード4 『岡田銀行』
岡田にはかつて岡田銀行がありました。明治18年、岡田浦の肥料商兼金融業者の亀岡平兵衛(2代目)と豪商・回 船業者の湊佐治平(9代目)が普通銀行として岡田銀行を設立しました。日根郡(岸和田以南)では国立の第五十一銀行(明治11年)を除くと、上之郷銀行 (明治16年)に次いで2番目で3番目の岸和田貯蓄銀行(明治27年)が設立されるまで10年もあることから、かなりの先進性があったことがうかがえま す。場所は現在のえびす屋さんの場所だったそうです。
岡田銀行は大恐慌の昭和5年、第五十一銀行に合併され、阪南銀行、住友銀行、三井住友銀行と吸収されていきました。
●エピソード5 『祭礼と喧嘩(けんか)』
昔は祭礼に喧嘩はつきものだったようです。村共同体という意識も強く、よく村同士の喧嘩が起こりました。中でも文政9(1826)年と天保5(1834)年の喧嘩はすごかったようです。
文政9(1826)年9月2日(新暦10月3日)の村祭りで陸方の若者が岡田浦方北組の挑灯竪(ちょうちんたて)を倒して喧嘩となり、「岡田村若者共一 統親々惣代」(岡田村の若者達の親の代表)が「岡田浦北組御連中」に以降は若者だけではなく親も責任をとるという内容の「誤り申一札の文」(あやまりもう すいっさつのぶん)の詫状(わびじょう)を入れて決着しました。
しかし、陸方と岡田浦北組は他村同様の関係だったので、8年後の天保5(1834)年9月2日(新暦10月4日)の祭礼で提灯立を倒した一件の遺恨を帯びて大喧嘩となりました。
陸方の若者の太鼓台が海へ潮かき(みそぎ)に下り、そのあと氏神へ参ろうとしたところ、明覚寺の北角に浦方北組の太鼓台が居座って通行を妨害。さらに、 9月4日(新暦10月6日)には陸方中組が祭礼の諸勘定(会計処理)をしているところへ、浦方北組の者が殴り込みをかけて、中組の者5名を負傷させまし た。医師に治療費が銀200匁(現在の20万円程度)が支払われるぐらい重症でした。
今回の喧嘩の非は浦方にあったので、「岡田浦北組若者惣代」と「中老代」は「陸方若連中代」に、道路妨害などしないと一切の非を認め、「誤り申一札の文」と詫状を入れて決着しました。
今では、北野の子や陸の子でなくても、やぐらを曳きに来たりと、地区の関係無く入り交じって仲良く曳いています。
●エピソード6 『地名の変遷』
西信達地区の地名の変遷を追ってみました。本格的に国名が制定されたのは701 年の大宝律令によるようです。当時は河内国に属していて、和泉郡、日根郡に大鳥郡を加えた和泉監(いずみのげん)という特別行政区域を設置して廃止後、同 じ地域に和泉国を設置して明治に至りました。
和泉国は江戸時代は岸和田藩が南郡(現岸和田市と貝塚市の大半)と日根郡(現貝塚市の北近義村と南近義村)、伯太藩が大鳥郡(現堺市の一部と高石市)が泉郡(和泉市、泉大津市、忠岡町、岸和田市山滝地区)を治めていました。
廃藩置県で岸和田県となり、堺県に吸収合併。明治9(1876)年、なんと奈良県全域が堺県に編入合併され、明治14年に堺県が大阪府に編入になったときから明治20(1887)年、奈良県が再度分離するまで、大阪府はとても広大でした。
◆河内国日根郡 岡田村・北野村・中小路村 大宝元(701)年 大宝律令で制定
◆和泉監日根郡 岡田村・北野村・中小路村 霊亀2(716)年 大鳥郡、和泉郡、日根郡を河内国から分立
◆河内国日根郡 岡田村・北野村・中小路村 天平14(740)年 和泉監を河内国に合併
◆和泉国日根郡 岡田村・北野村・中小路村 天平宝字元(757)年 和泉国を設置
◆岸和田県日根郡 岡田村・北野村・中小路村 明治4(1871)年7月 廃藩置県
◆堺県日根郡 岡田村・北野村・中小路村 明治4(1871)年11月 郡区町村編成法により堺県に編入
◆大阪府日根郡 岡田村・北野村・中小路村 明治14(1881)年 大阪府に編入
◆大阪府日根郡西信達村 岡田・北野・中小路 明治22(1889)年 町村制施行で合併
◆大阪府泉南郡西信達村 岡田・北野・中小路 明治29(1896)年 南郡と日根郡が合併
◆大阪府泉南郡泉南町 岡田・北野・中小路 昭和31(1956)年 合併
◆大阪府泉南市 岡田・北野・中小路 昭和45(1970)年 市制施行
●エピソード7 西信達小学校・西信達中学校の校名の変遷
西信達地区には、江戸時代に1軒、寺子屋があったことが確認されています。明治5年7月、堺県日根郡二十三区泉州30番信達郷小学校分校岡田村明覚寺として学校が初めて設置され、翌年、現在の西信達小学校のルーツとなる岡田小学校が設置されました。